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【稗史(はいし)倭人伝】

稗史とは通俗的かつ非正統的な歴史書等をいいます。 現在進行形の歴史を低い視点から見つめます。

小沢事件とシーメンス事件の驚くべき類似構造…変われない民衆

小沢一郎は、「国民の自立」、「自立した国民」という。
しかし「自立した国民」とは、小沢一郎の幻想に過ぎないのではないか?
この国民が「自立」する日は永遠にこないのではないか?

自分たちの敵に煽られて、自分たちの味方に襲いかかっているのがこの国の国民なのだ。
敵と味方の区別もつかないでいる。
多分これはこれまで何度も繰り返されてきたことなのだ。

今私たちの前に立ちふさがっている最大の敵は、この国の官僚なのである。
しかし国民のほとんどは彼らに操られて、最大の味方のはずの小沢一郎を攻撃している。

小沢一郎のいう「自立」とはなにか?
自分の目でものを見て、自分の頭で考えることである。

わたしの基本理念──小沢一郎ウェブサイトより

私たちは、「共生」を新しい国づくりの理念として、あらゆる面で筋の通った「公正な国・日本」をつくる。そのために、国民一人一人が自立し、国家としても自立することを目指す。


明治以来この国は数限りなく政治的過ちを繰り返してきた。
太平洋戦争でこの国の政治は過去と断絶したと考えるのは明らかな誤解である。
1945年8月15日も8月16日以後も公務員は公務員であり続けたのである。
官僚国家は官僚国家であり続けたのである。

その官僚国家を辿っていくと一つの法律に行き着く。
「文官任用令」である。

第2次山縣有朋内閣、文官任用令(明治32年3月28日勅令第61号)を公布。

この法律を成立させた背景には、山県有朋の徹底した民衆蔑視がある。
愚かで気まぐれな民衆を政治から排除するのがその目的であった。

民衆は国会議員を選ぶ権利を持っている。
しかし国会議員には行政に容喙させない。

それが山県有朋の意志であった。

戦前の官吏の分類(身分上の関係)
                      
親任官(大臣級)→ 勅任官(次官・局長級)→ 奏任官(課長級)→判任官

文官任用令

勅任官の任用は自由任用とされていたが、第一次大隈内閣で勅任官への政党人の登用が目立った。

政党勢力の侵入を抑え、官僚としての身分的階層制を確保するため、第二次山縣内閣は親任官を除く勅任官は文官高等試験合格の奏任官から任用すると1899(明治32)年3月28日に改正したが、これは山縣有朋の政党政治抑制策であった。(ウィキペディアより)


官僚への、つまり高級行政職への政治任用否定である。
さらに山県はもう一つの仕掛けを施した。
軍部大臣現役武官制である。

軍部大臣現役武官制
1900年(明治33年)、第2次山縣内閣は、陸軍省官制及び海軍省官制を改正し、「大臣(大中将)」、「陸軍大臣及総務長官ニ任セラルルモノハ現役将官ヲ以テス」と定めた
……
軍部が現役武官の中から大臣候補を挙げなければ組閣できず、辞職して代わりの候補を出さなければ内閣を維持することもできないこととなる。この規定によって、軍部の意向を抜きに組閣し、内閣を維持することは難しくなった。(ウィキペディアより)


政党政治を毛嫌いする山県有朋の姿勢が如実に表れた制度である。

しかしこの2つに手を付けた人物がいる。
山本権兵衛である。
山本内閣は、内務大臣原敬、大蔵大臣高橋是清をはじめ政友会中心の、政党内閣に近い性格を持っていた。

第一次山本内閣 1913年(大正2年)2月20日から1914年(大正3年)4月16日

1913年(大正2年)6月13日、第1次山本内閣において、陸軍省官制および海軍省官制を改正して、軍部大臣の補任資格を現役将官に限るとの規定を削除

文官任用令を緩和(大正2年8月1日勅令第261号)。勅任官の特別任用の任用条件を拡大


山県の顔は丸つぶれである。
5ヶ月後、降って湧いたように起こったのがシーメンス事件である。

シーメンス事件
 ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件である。ヴィッカースへの巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。1914年(大正3年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。

1914年(大正3年)1月21日の外電が、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校に会社側がリベートを贈ったとの記載があると伝えたことから、1月23日、第31議会衆議院予算委員会で、立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及した。山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことから、これに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、片桐酉次郎ら海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した
2月10日野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。
……
3月24日山本内閣は総辞職した。


山本内閣を倒した力とは何だったのか?
長州・陸軍……山県有朋
薩摩・海軍……山本権兵衛
という構図はあったにしろ、そして山県に圧倒的な力があったとしても、山県一人では時の内閣をつぶせない。
山県が軽蔑していた民衆の力が必要だったのである。
そして民衆はマスコミを使えば容易に操れた。
マスコミもまた権力に迎合するだけの存在であった。

山県有朋と山本権兵衛。
どちらが民衆の敵であり、味方であったのか?
どちらが政党政治の敵であり、味方であったのか?

山本権兵衛にも藩閥政治家・海軍軍人という限界はある。
しかしその政治的背景や時代状況という限界を考慮しても、答えは明らかであろう。
(念のため、味方は山本の方です)

今思うと、シーメンス事件の構図は驚くほどロッキード事件に似ている。
そしてまたそれが小沢事件で繰り返されている。

権力に抱き込まれたマスコミ。
マスコミに煽動され、味方に襲いかかる民衆。

「自立した国民」とは、永遠に”幻想”に過ぎないのではないか?

軍部大臣現役武官制
1936年(昭和11年)、広田弘毅田内閣で復活

文官任用令
1946年(昭和21年)4月1日勅令第194号により廃止


廃止されたのは、山本権兵衛が改正した任用令であり、以後現在まで山県が維持しようとした任用制度(官僚による行政の独占)が実質的に続いている。
ただし、山県有朋は良かれ悪しかれその圧倒的な力で、官僚組織そのものをコントロールすることができた。
しかし今その山県はいない。
官僚組織は騎手も手綱もない放れ馬状態である。



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